しもころ雑記帳

創作とか感想とかなんかそんな感じ。アダルティなのも混ざります

【感想:映画】トゥルーマンショー

名作と名高い作品だけれども、実は見たことがなかったため遂に見ることにした。

まあネタバレ的なものは散々食らっていたというか、

トゥルーマンショーみたいな」という言葉があるほど有名な作品だしね…

ある種のメタフィクションじみた作品というのは知った上の視聴の感想である。

 

以下ネタバレあり

ざっくりあらすじ

ある陽気な男トゥルーマン

彼は生まれたときから離島シーランドから出たことがなかった。

だが、幸せで楽しい人生だった。

ある日、その生活が虚構だったのかという疑いを持つ。

自分の周囲は作り物で、街の皆や家族は演技だったのではないかと。

それは真実だった。

生まれてから現在までトゥルーマンは壮大なノンフィクション番組の主人公だったのだ!

彼が暮らしたシーランドは大きなドーム上のスタジオで、

番組制作者が監視するように24時間トゥルーマンを撮影し続けていたのだ!

そしてトゥルーマンは脱出を計る。

撮影スタッフは全力で彼を追いかけ捜索するが見つからない。

彼は水を恐怖するのにも負けず海に逃げていたのだ。

スタッフの起こした荒波にもまれ、命からがら進み続け、

最後にはスタジオの一番端、カキワリの壁にぶち当たり、

自分の人生は虚構であり自分の限界はここだと知る。

絶望しきったそのとき壁に非常用の出口を発見する。

自分の知らない世界への一歩を踏み出さんとすると、

遂に神たる監督が語りかける「外には幸せなどない」と。

そして「君には未知に踏み出す勇気はない」と。

けれども創造主の考えを超え、トゥルーマンは外へと踏み出したのだった。

 

感想

・良かったところ

まず設定がおもしろいのもそうだが脚本の出来がすごい!

虚構の生活をさせられていたというタネはわかっていたし、わりと序盤で想像できるんだけれど、

それがまさかクライマックスよりだいぶ前に明かされて話が展開していくとは思わなかった。

ネタバレ知ってても面白い映画だとは…

ジムキャリーの大仰な演技もトゥルーマン役にはぴったりだった。

陽気で演技過剰な感じから徐々に焦りと恐怖で行動に起こす感じが特によい。

終盤のカキワリ前の絶望とか、とてもいい演技してたなと。

 

あと自分なりの考察については総評の下で少し語ろうと思う。

 

・悪かったところ

まあここはフィクションだからしょうがないとはいえ、トゥルーマンショーそのものがあまり面白そうじゃなかった点。

編集しないと日常なんてすごい冗長だからなあ。

あとはまあ素直にエンターテイメントしてたかというとなんとも言えない映画でもあるということ。

考えさせる系の作品だからそれもまたしょうがないけど。

 

総評

☆ ☆☆☆☆★ (9/10点)

非常によい映画だった。

ネタバレを知っていたとしても1度は見るべき映画だと思う。

 

考察

この作品はいくつかの風刺を含んでいる。

色々な感想もみたがとある視点への考察を深くする人が少なそうだったのでちょっと付け加えておこうと思う。

 

・風刺1:世界が虚構の可能性

誰しもが思うであろう世界がもしかしたら作られたものなのでは?という疑問を扱っている。

これはまあわかりやすく虚構の世界と作られた人生であるトゥルーマンの視点で描かれている。

そしてその虚構の中で信じうるものを見つけたらそれのために世界を打ち破ってでも進めというメッセージがこめられている、と自分は思う。

 

・風刺2:テレビ番組という虚構を見るものの視点

「たとえある人間の人権を踏みにじっていたとしても面白いのならば良い」

という視聴者の娯楽への欲求を描いてる。

画面越しだから他人事で語りつつ詳細な心境を訳知り顔で語る傲慢さはまさにそれだ。

けれども、製作者が思っている以上に視聴者は娯楽としてしか見ていない。

視聴者が感情移入してる先は主人公だ。

最後の最後、トゥルーマンがスタジオを出たときに、製作者は落胆するが視聴者は歓喜するのだ!

ほかにもトゥルーマンが脱出できるかどうか自体を賭けるシーンなんかも象徴的だ。

それは作り手が思っている以上に視聴者が番組に対しても製作者に対しても残酷であり、そして素直だということをあらわしているのだ。

トドメのラスト、次の番組を探すシーンは痛快であるとすら言える。

 

・風刺3:創作者からみたキャラクターへの愛情

ここが個人的に語りたかった点だ。

作品を作る人間からすると創作したキャラクターというのは我が子も同然だ。

たとえ金銭が絡み、義務じみた行為になっていたとしても、

自身が直接触れることができない、遠くから見守るだけの存在だとしてもだ。

世界に絶望し、創作の中に夢を見て我が子を幸せにしたいと思うのだ。

しかし、本当にキャラクターの望むことなのだろうか?

作者は設定を語りキャラクターを作り上げるが、その設定というものを通してしかキャラクターを理解することはできない。

この作品で言えば「水を恐怖し未知を怖がる」という設定が作者がつけた設定なのだ。

創作者ならばわかることだが、キャラクターはひとりでに歩き始める。

キャラクターが設定を乗り越えて行くことを恐れ、自分の手を離れるのを阻む行為のそれは、ある種過保護な父のような心境だろう。

それが神(father)として描かれた監督だ。

けれど、それだけでこの作品の創作者描写は終わってないと自分は考える。

最後に絶望したとき、階段と出口が都合よく現れたのはなぜだろうか。

これはこの映画自体の監督と脚本、ピーターウィアーとアンドリュー・ニコルが与えたキャラクターへの救いなのではないだろうか。

これは皮肉にも作中の監督が行った「感動的親子の再会」のような都合のよさがある。

結果的に製作者自身の業のようなものがここに現れたように思う。

もちろん、製作者が自覚的にした表現だろう。

そしてようやく、主人公トゥルーマンは作品そのものの出口から旅立ったのは製作者がこれで終わりという宣言に他ならない。

終わらない作品を終わらせたのはさらなる上位存在だったというわけだ。

 

以上、なんとなくの考察。

 

蛇足

自分も創作をする人間だからたまに思うのだが、創作物は創作者をどう思っているのだろうと。

不幸を押し付け嘆かせる自分は傲慢ではないだろうかと。

考えれば考えるほどに自分の創作とは何なのかと不安になるのだ。

まあ、考えたところでどうにもならんのだがね。